岡部騎手の引退に思ふ
いつか書いたっけ。馬券を自分の意志で買ったのは、フラワーパークが勝ったスプリンターズS。1996年の冬の事でした。まだ10年にも満たない競馬歴。むりやり遡っても、宝塚記念をハギノカムイオーが制した1983年に、先輩に誘われて馬券の種類も知らずについて行った渋谷の場外馬券売り場。それでも22年前。
岡部騎手と云ったら、1967年に初騎乗。以来56歳の今日まで実に37年間もジョッキーとして活躍してきたなんて、凡人のボクなどにはあり得ない偉業です。
だいたい体力の事を推し量っても、ゲーセンで何という名前だったか、馬に跨って手綱をしごく通信対戦型のアーケードゲームで本気になり、やおらトイレへ駆け込んで吐いたような経験しか無い者には、その過酷なトレーニングや減量は、想像もいたらぬ神の領域。もう飛んでもないと思うしかないのであります。
たった10年しか知らない者が岡部騎手の数々の名勝負を語るには、あまりに憚ります。それは、一家言を持たれる諸兄方に任せて、岡部騎手の引退に際して──。
中央競馬の歴史を書物やアーカイブで振り返ると、ずいぶん現代的に変化していたんだな、とヒョッコは感じます。レースのルールや番組の改編、直接的な競走だけでなく、馬主さんやトレセン、地方競馬との交流など、競馬をとりまく様々な環境は年々、すこしずつ変わってきている事に気づかされます。
中には、かならずしも競馬にとって宜しくない事柄もあったようにも思えますが、しかしそれとて中央競馬を維持、発展させていくための苦渋の選択であったり、後になって恩恵を得たり、とにかく少しずつ時代を過ごしてきたにちがいありません。
そんな中にあって武豊騎手のような鬼才の持ち主が生まれたり、最近なら村本騎手のように、、本当に静かに鞭をおいた職人騎手もあって、ボクのようなしがない馬券を支えてきてくれたのでした。
岡部騎手は、競馬界で直接、生身のからだを張って、そういう変化や経緯を体験してきた偉人ではないでしょうか。
今年は、かの小島太調教師のご子息、太一君も騎手としてデビューを果たしました。今年もまた外厩制度を利して活躍するサラブレッドがいるかも知れません。十年に一度の逸材と期待されるディープインパクトも、道悪に怯む事なく弥生賞を無敗でクリアし、いよいよクラシックを目指します。
刹那的に競走馬を想い遣る騎手として、その長い誉れある歴史に自ら終止符を打つ岡部騎手に、止むことのない競馬の雄大な流れを感じずにはいられません。
岡部ジョッキーへ。
ありがとうございました。
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